氏より育ち、育ちより生き様
人生を重ねてきて、兼がね思う事。
「氏より育ち」。
しかし、それを遥かに凌駕して、「育ちより、生き様」だな~と。
不等式にすると、
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生き様>>>>>>>>>>>>>|超えられない壁|>育ち>>氏
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・・・・ってな感覚が、私にはある。
三次元的に言えば、人は、親を選べないし、生まれてくる環境を
選べない事になっている。
スピリチュアルな観点で言うと、それは「自分が選んだこと」
という定義だけれど・・・。
例え、選んで生まれて来たとしても、「その事を忘れている」
という状況が、今の私たちの住む三次元世界なのだろう。
そんな中で、アクセクアクセク、もがいて、もがいて
泥沼の中で、足を取られながら、浮き上がろうとしている私達。
時には、そんな泥沼に、どっぷりと頭まで浸かって、息も
絶え絶えな時もあったっけな・・・。
それでも、時々浮かび上がっては、息継ぎして、何とか生きてきた。
「何で、そんなところで咲くのよ」
「なんで、そんな花なのよ!」
そう言われても、種が、ふら~っと落ちたところで
咲くしかない花のように・・・・。
咲く場所を選べず、そこで花を咲かそうと、一生懸命だったのよ。
それを、人に笑われても、そしられても、ただ只管生きてきた。
不器用だったかもしれない。
不愛想だったかもしれない。
それでも、いつか綺麗な花を咲かせたかったから、そこで
生きてきた。
そんな生き方をしてきた者を、誰が哂うの?
誰が、非難できるというの?
そもそも、その花の生き様を哂えるほどの「花」は
どこに、どう咲いていると言うの?
温室で、人に管理され、手間を惜しまれず大切に
育てられた花だけが、尊いのですか?
その花は、確かに綺麗かもしれないけれど、誰かの
心を震えさせるほどの、感動を与えられると言うの?
私は、誰も登って来ない山奥で、強い風に吹かれながらも
たった一輪咲いている野花が好き。
泥沼で、しっかりと根を張りながら、清々しい花を咲かせる
水連は、もっと好き。
そんな風に、生きられたら、素敵ね・・・・。