小さき森を愛する花  瑠璃唐草物語

瑠璃唐草の別名はネモフィラ。ギリシャ語のNemophila は、ギリシャ語の 「nemos(小さな森) + phileo(愛する)」が 語源とされています。そんな愛らしくも健気な花のように生きていきたいと思います。

氏より育ち、育ちより生き様

人生を重ねてきて、兼がね思う事。

 

「氏より育ち」。

 

しかし、それを遥かに凌駕して、「育ちより、生き様」だな~と。

 

不等式にすると、

                |       |

生き様>>>>>>>>>>>>>|超えられない壁|>育ち>>氏

                |       |

・・・・ってな感覚が、私にはある。

 

三次元的に言えば、人は、親を選べないし、生まれてくる環境を

 

選べない事になっている。

 

スピリチュアルな観点で言うと、それは「自分が選んだこと」

 

という定義だけれど・・・。

 

例え、選んで生まれて来たとしても、「その事を忘れている」

 

という状況が、今の私たちの住む三次元世界なのだろう。

 

そんな中で、アクセクアクセク、もがいて、もがいて

 

泥沼の中で、足を取られながら、浮き上がろうとしている私達。

 

時には、そんな泥沼に、どっぷりと頭まで浸かって、息も

 

絶え絶えな時もあったっけな・・・。

 

それでも、時々浮かび上がっては、息継ぎして、何とか生きてきた。

 

「何で、そんなところで咲くのよ」

 

「なんで、そんな花なのよ!」

 

そう言われても、種が、ふら~っと落ちたところで

 

咲くしかない花のように・・・・。

 

咲く場所を選べず、そこで花を咲かそうと、一生懸命だったのよ。

 

それを、人に笑われても、そしられても、ただ只管生きてきた。

 

不器用だったかもしれない。

 

不愛想だったかもしれない。

 

それでも、いつか綺麗な花を咲かせたかったから、そこで

 

生きてきた。

 

 

そんな生き方をしてきた者を、誰が哂うの?

 

誰が、非難できるというの?

 

そもそも、その花の生き様を哂えるほどの「花」は

 

どこに、どう咲いていると言うの?

 

温室で、人に管理され、手間を惜しまれず大切に

 

育てられた花だけが、尊いのですか?

 

その花は、確かに綺麗かもしれないけれど、誰かの

 

心を震えさせるほどの、感動を与えられると言うの?

 

 

私は、誰も登って来ない山奥で、強い風に吹かれながらも

 

たった一輪咲いている野花が好き。

 

泥沼で、しっかりと根を張りながら、清々しい花を咲かせる

 

水連は、もっと好き。

 

 

そんな風に、生きられたら、素敵ね・・・・。