小さき森を愛する花  瑠璃唐草物語

瑠璃唐草の別名はネモフィラ。ギリシャ語のNemophila は、ギリシャ語の 「nemos(小さな森) + phileo(愛する)」が 語源とされています。そんな愛らしくも健気な花のように生きていきたいと思います。

空を悟るもの・・・・棚ボタのヒントで、お釈迦様に繋がる!

空を悟る者

 
 
孫悟空の孫は、単なる苗字であり、それ以上の意味はありません。
名づけの親は須菩提祖師です。
祖師はサルという中国語からとって孫という苗字をつけました。
けものへんを取って孫にするか胡にするかと一度考えて孫にしたのは、弟子を思う気持ちの表現でしょう。
どちらがよいかといえば、古い月の胡より、子孫繁栄の孫を選び、弟子の精進とその後についてを祝っただけのものです。

しかしその名前の悟空についてはとても深い意味があります。物語の中では、

おまえは十番目の弟子だから悟の字を引用して
とありますが、ここに作者の意図があり、
悟の字が十番目でも二十番目でも、
孫悟空の名前が孫悟空になるように、
物語は作られているようです。

なぜなら「悟」とはさとるという意味で、あわせて空を悟ると書き、それが仏教の根本概念だからです。

孫悟空は別名を孫行者(そんぎょうじゃ)ともいいます。
行者とは、宗教的功法によって悟りに到達する道を選んだ人のことを指します。

仏教で悟りを得る道はいろいろありますが、密教においては

  経典(きょうてん)
  功夫(こうふ)
  実学(じつがく)
  秘術(ひじゅつ)

を学び、これらの知識や技術を習得することによって得られた智慧を実践することが修行とされています。

これらを四大法門といって、とくに功夫を最優先に修行する者を行者といいます。

ちなみに経典を優先して学び、そこから悟りへの道を歩むものを研究者といい、人はその人を先生、師匠と呼びます。この物語の中では三蔵の事を指しています。

物語の中で孫悟空は数々の妖怪に勝利することができます。西遊記では仏道 (あるいは単に道) を進むときに遭遇する障害を妖怪という形で表現しています。
功法の実践によって空を悟った者は、修行中におこるいろんな障害を克服する力を持っている、ということです。

その多くの障害の中で、さすがの悟空も手に負えない妖怪も沢山います。
それは、たとえ功法を修め空を悟った者とて乗り越えられない障害もこの世にはたくさんある、ということの示唆でしょう。

物語の中には天帝にさえ手に負えないいろんな障害 (妖怪・怪物・化け物) がどんどん でてきます。

作者は、登場人物を将棋のこまのように配置して、最終的に全員を彼岸に到達させます。

冒頭に書いたようにこの物語はある一人の童話作家の思いつきやイマジネーションによる創作ではなく、作者はただ、その筆を持つ手を物語りにささげており、物語が作者に文章を書かせているかのようです。

ほんとうの作者は、一体誰と言うべきでしょうか。
 

須菩提祖師

 
須菩提祖師とは、釈尊十大弟子のなかの一人です。
十大弟子には順序があって、須菩提は第一の弟子です。
須菩提釈尊に解空第一、と称されておりました。

釈尊は人を誉めるのがとても上手だったようです。
どんな弟子にもその優れた面について賞賛し、その得手を引き出すように褒め称えています。
だれが見ても取り得のないような愚か者に対しても、あなたは優れて真面目ですと褒め称えることのできた人で、それはまた、嘘偽りのない真実でもあり、このようなことができた、ということについてもわたしは、それが悟った人の行いなのかと思いをはせるものです。

解空第一というのは、
あなたは空を解く道に非常に優れており、第一人者である、という意味です。
読んで字の如しですが。これが須菩提です。

この須菩提を筆頭に弟子は順に

  持律第一の優波離(ゆうばり)、
  智慧第一の舎利弗(しゃりふつ)、
  頭陀第一の摩迦葉(まかよう)、
  天眼第一の阿那律(あなり)、
  神通第一の目健連(もくけんれん)、
  多聞第一の阿難陀(あなんだ)、
  密行第一の羅侯羅(らごら)、
  論議第一の加旋延(かせんえん)、
  説法第一の富楼那(ふるな)

がおります。

この件については わたしが独自に調べた物であって、わたしの関わりがある僧侶達とはまったく関係がありません。

※ 現在交流のある僧侶達と知り合ったのは
2002年のことで、上記の記述 (孫悟空に関する記述) は2000年に わたしが書いたものを手直しして掲載しております。

この十人が十大弟子といわれます。
羅侯羅 (らごら) は釈尊の息子のラーフラです。
出家してしまった夫のもとへ財産をもらってきなさいと息子を送り、息子は母に言われたとおりに実父の釈尊に言うと、世界一素晴らしい宝物をあなたにあげましょうと言って、彼を弟子にしました。
それぞれの弟子にそれぞれの逸話がありますので、調べて味わうことは楽しいことです。

さて、話を須菩提に戻します。
釈尊のお弟子の中で須菩提は、釈尊の説く「空」について、一番よく理解した弟子でした。
釈尊の理解者で後援者であった給孤独長者の弟の子で、長者が釈尊祇園精舎を寄進したとき、その説法を聞いて出家したといわれています。

石猿は解空第一の須菩提の弟子になったので悟空と名づけられました。
ここに須菩提の存在理由があります。
(物語の設定環境としての、須菩提という登場人物の存在価値)

須菩提祖師と出合った悟空はすぐさま弟子入りし、師について法を学びます。
人間であったほかの弟子達よりも物覚えが速く、術もどんどん上達してやがて最高位の弟子になります。
師に入門して十年で地殺七十二変化の術をすっかり習得し、師匠に別れを告げて家来たちの待っている花果山に戻ります。
 
以上、西遊記。わたしの読み方
by polestar01 さまのブログより引用させて頂きました。
 
 

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西遊記でおなじみの「孫悟空」は觔斗雲(きんとうん)に乗って空を飛ぶです。孫悟空は物語なのでフィクションと言えばフィクションです。
その孫悟空は「須菩提祖師(すぼだいそし)」という仙人の弟子になり、孫悟空と言う名を与えられたとされます。この須菩提祖師(すぼだいそし)は釈迦の十大弟子の1人とされていますが、諸法皆空を悟った第一人者のことです。

私は孫悟空という名を見た時、
悟空は「空」を「悟った」物の意であることは簡単に理解しました。その「悟り」は「吾(わ)れ」の「心」です。自分(吾)の心を覚ることが「悟」です。「空」は般若心経の「色即是空・空即是色・受想行識」で理解出来ることです。座禅で坐ったから解るではないのです。
私は何事も座れば解ると言う人は【座禅バカ】と言っています。単一の示(衣)しか頭の知恵が回っていないのです。同じ座るのであれば禅の開祖達磨大師の「壁面九年」の故事を知って、初めて「ダルマ(真理)」の意味が解るのです。「九」から学ぶのです。

 

私は大本教神諭の「ダルマ(達磨)大師として現れた」を見た時、?と首を傾げました。ダルマとは「真理」のことであり、達磨(ダルマ)大師の壁面九年の事柄は壁を見つめて「九」で、壁でなく紙に「九×九」を示した意味かと勘づきました。禅は「単」を示す以上、そこから一つの事柄が見つけられるです。

 

言葉の仕組みとは、皆さんの想像を絶するほどの仕組みで成り立っているのです。

禅(禪)=単なる示し
九つ花の上下左右とも「五番目の口」は「41」の位置に成り立ちます

五番目の口で悟る心は、人に内在する良心神です

この存在は私達の魂の内では天帝の分魂が坐る位置ですが、私達からする私達の魂の天帝の分魂は主の御子格ではなくて、主の「孫格」に当たるのです。で、「孫悟空」となるのです。

大本教神諭が予告した「九つ花」とは、西遊記を読めば魔王が出した【九の数理盤】のことだと簡単に解るのです。

その孫悟空の「猿」が意味することは奇魂の働きである【叡智】なのです。叡智をもっての「悟」りなのです。いくら「禅」で坐っても「単」の示(しめすへん)しにしか過ぎないのです。

西遊記ではこの須菩提祖師(すぼだいそし)は「仙人」とされますが、この雲に乗るは仙人の術である「仙術」とされますので仙人ならば雲に乗るとなります。
この日本で「雲に乗った仙人」として有名なのが【久米仙人】の話です。今昔物語集などではその話が語られています。仙人修行で仙術を得て雲に乗ったが、川で洗濯している女性のふくらはぎに見とれて雲から落ちてしまった。そしてその女性と結婚をして俗人となったが、その後に遷都に運ぶ木材を仙術で都に運んだことで有名になった話です。
それはフィクションであるかどうかは解りませんが、昔話としてあっても、誰も現実に雲に乗った人など見たことはありません。しかし、霊体であれば観音菩薩如来図で描かれるように可能な話なのです。

神言会

以上、神言会さまブログより引用させて頂きました。

 

 

 

 

 

いや~西遊記も知っていたし、お釈迦様の十大

 

弟子の事もしっていたのに、この二つに繋がりが

 

あることに、今、やっと気づいた私。

 

悟空って、あんまりお気楽に使っちゃいけない

 

「名」だったのね~。

 

漫画や、テレビアニメや、ドラマの影響で、

 

すっかり身近な名前になってしまって

 

おりましたわ~。

 

 

お二人の、素晴らしい記事に感謝です!

神言会(kamikotokai.com)のプログ