過保護と母性と過干渉と・・・。
母親が、子どもを育てる時に、どうしても時に、必要になってくる
保護と干渉。
しかし、それも度が過ぎると、過保護・過干渉と言われ、子どもの
健全な人格形成や、体のバランスの良い発育にも、少なからず
良くない影響を与えてしまう事もある。
どこまでが保護で、どこまでが過保護なのか・・・・。
どこまでが許される干渉で、どこまでが思いとどまるべきか干渉なのか・・・。
世のお母さんたちは、きっと自問自答してきたことだろう・・・。
必ずしも、過保護で過干渉な環境で育った子どもが、犯罪に走るわけでもなく
また、逆に、放任主義で育ったこともが、必ずしも、人生の道を誤るわけでもない。
さて、どこで線引きをしたものか・・・・。
難しい線引きだ。
「やだ、あなた過保護過ぎじゃない~。」
そういう他人の杓子定規で、NGを出された時が、そのサインなのだろうか?
いやいや、人それぞれ価値観は、違うからね・・・。
一概には言えない。
でもね、少なくとも、子どもだちが、大人として歩みだしたら、
余計な手出しは控えた方がいいと思う。
勿論、大人として、歩みだす時期が、20歳とは限らないし、
むしろ、早熟な子は、思春期以前に、自分の道を見定めて、親の手を
極力排除したいと思っているかも知れない。
要は、その一人一人の子どもと、お母さんの、絶妙な掛け合いでしか
掴み取ることができない「潮目」なんだと思う。
その潮目を感じたら・・・・。
「幾つになっても、我が子」という「錦の御旗」は
心にしまっておいて、遠くから見守るしかないよね。
血のつながった親子ですら、そうだもの・・・。
まして他人は・・・。
大人同士の繋がりというものは、もっと、程よい距離感でないと
色々問題が起こってしまうと思うけどね・・・。
仕事とか、ご近所付き合いとか、親戚付き合いとか・・・。
ある程度、「浮世の習い」で、仕方なく関係を維持せねばならない
間柄ならまだしも・・・。
何故に、そうでない間柄で、過保護や過干渉が、許されているのだろう?
「愛が溢れすぎて、他人の事が、心配で、心配でしょうがないの!」
なんていう、お節介おばさんは、昨今、少なくなった気はするのだが・・・。
ちょっとディープな世界の、スピリチュアル界隈では、そういう
「愛」が、溢れて、そこら中、愛の洪水を引き起こしている人が
結構いらっしゃるようで・・・。
いやいや、「愛の洪水に溺れたい!そこで死ねるなら本望だわ!」
という「未来の愛のどざえもん候補」を、熱望する方には、念のために
救命胴衣を、そっとお渡しして、健闘を祈るばかりですが・・・。
そうは思えない、「愛」はスパイス程度で、適量主義よ!と
仰る粋な「人生の熟練航海士」の方には、是非に、考えて頂きたい
問題があります。
巷に流行る拝金主義の教祖様や、信者は「私の為にある!」を
有言実行されている、女王様と奴隷主義の教祖様。
この方たちの共通アイデンティティは、「過保護」と「過干渉」
で出来ているんじゃなかろうか・・・・ってこと。
「あなたの為に・・・」
「あなたの家族の為に・・・」
「恵まれない方の為に・・・」
「他の全ての方の為に」
「地球の為に・・・」
「宇宙の為に・・・」
「貴方のお金と、時間と、人生全てを捧げなさい」
この美しすぎるフレーズに、酔っぱらって、人生を棒に振っていらっしゃる
健気な方の、多い事。
きっとね、皆さま母性が、有り余っていらっしゃるのね・・・。
母性を、湯水のごとく周りに振りまいていらっしゃる、神々しき方々。
しかし、皆さま、本当に、おしあわせですか・・・・?
人生の、生活の、健康の、お金のバランスは、大丈夫ですか?
本当は、疲れていらっしゃいませんか?
母性は、そんなに、手あたり次第振りまかなくてもいいものですよ。
愛は、そんなに、溢れさせなくてもいいものですよ。
愛も、母性も水のようなもの・・・。
あまりに溢れすぎると、大切さに気付けないじゃありませんか。
水と言えば、H₂Oですね。
こんな風に、酸素一つに水素二つで、成り立っているのが
水です。
この形が、安定しているんですよね・・・きっと。
O(酸素)が母性だとしたら、H(水素)が、愛。
両手に一つづつが、一番バランスいいんだと思いますよ。
だから、水は、サラサラと流れるし、無味無臭だし、
どんな形にも沿えるし、色んな物質とも、融合し合える。
もし、O(酸素)の周りに、沢山のH(水素)が、くっついて
いたらどうなるんだろう?
科学音痴なので、解りませんけど・・・。
本来の水のように、人類にとって、無くてはならない存在とは
違うものになってしまいそうですね!
H(水素)=愛としたら、愛を欲張らず、さりとて、全て
手放したりせずに、バランスよく生きていける事こそ、
本当の母性を発揮できるんじゃないだろうか・・・・。
拝金主義と奴隷主義の教祖様だって、水なきゃ生きていけないでしょ?
そろそろ、ご自分の周りの余計なものを、手放して、水の様に、
サラッと生きてみては如何でしょうか?
信者さんのために・・・・という過保護。
こうしなければ、正しい道を歩けない・・・・という過干渉。
信者さんは、貴方の子どもじゃありません。
立派な他人の大人です。
そんな大人に過保護と過干渉をするのは、余計なお節介どころか
それぞれの「人生の課題」を邪魔するようなもの。
学ぶことは、この辛い三次元劇場で、十分過ぎるぐらいできるのです。
その学びの時間を、これ以上搾取することは、許されません。
みな、それぞれの課題に戻って、一人一人、自分の「心」と
向き合うべき時だと、私は思います。
ゆず茶を飲みながら・・・・
今日は、風が強くて、とても寒い。
朝から、ゆず茶を飲んで、温まる。
週一回行っているスーパーで、国内産のものを見つけ
嬉々として買った、このゆず茶。
もともと、ゆず茶、大好きだったのだけれど、以外に国内産が
少なくて・・・。
それが、今まで、飲まなかった理由の一つだった。
でも、これは福岡の八女のゆず茶。
安心だし、それに、ホントに美味しい!
しかし、昨日は、それどころじゃなかった。
博多駅の、ド真ん前の道路に大穴が開いてしまったからだ。
「うそでしょ~~~。」と言いたくなるほどの、大穴!
足元では、地下鉄延伸工事が、行われていたらしいのだが、
もともと、博多の街は、大昔は、海だったらしく、砂州の堆積や
埋め立てで、出来上がった街だという。
相当深く掘らないと、硬い岩盤には届かない場所らしい。
蟻の一穴から、水が染み出し、そこから決壊したらしいと
関係者は語っていたが・・・。
不幸中の幸いは、陥没事故による巻き込み事故や、
死傷者が居なかったこと。
「おかしいな・・・」と思ってからの対処の仕方は、流石だったと思う。
工事の方が避難して、数分後には、もう一帯を閉鎖していたとの事。
だけど、復旧するのは、大変そうだ・・・。
何せ、九州の玄関口博多の、真ん前に、あんなに大きな穴が
開いたんだもの。
これ以上、崩落しないといいのだけれど・・・。
大穴ついでに、もう一つ。
どうやら、アメリカ大統領選挙は、大穴も、大穴だった筈の
トランプ氏が、勝ちそうな勢いだ!
ここを取れは勝つ!と言われていた激戦区を、次々ものにしている。
現在、209:244で、トランプ氏のリード中!
思った以上に、隠れトランプファンは、居た様だ。
「行き詰っているアメリカを変えるのは、狂人にしかできない!」
そう、国民は判断したのだろうか・・・。
一気に、日経平均が1000円も下がったらしいが・・・。
どちらが大統領になっても、一長一短あると思われる候補者。
真っ二つに割れた世論の中、どちらが政権を担っても、
混乱しそうな気がするのは、私だけだろうか・・・。
心の澱の整理として
ちょっと、冷たくて、悪魔みたいな横顔に嫌悪感。
なのに、この甘い声は、懐かしさと、愛おしさを連れてくる。
t
Gazebo -- I Like Chopin [[ Official Video ]] HD
以前にも、ブログで紹介して、また、ここへ載せたのは、この曲を
聞くと、どうしても、救い上げて、固めて捨てたい「心の澱」を
思い出してしまうから・・・。
思い出したくないけど、思い出し、書き出し、そして忘れるべき
出来事。
本ブログで書きかけて、中断していた、私の「宿題」
みたいなもの。
書き終わって、しっかりと見て、感じて、手放さなければならない
ものなのだけど・・・。
私の中で、消化(昇華)できない思いとか、私の中のタブーと
重なって、なんとも厄介な代物なのだ。
最近、「思ったこと(もの)を引き寄せる力」ってやつが、
私の中に芽生えたらしく、思う事、考える事が
左程待つことなく、目の前に出現する。
怖い・・・・思うな、考えるな!
ボ~ッとしてないと、やばいぞ!
少しでも、思い、考えた事が、この三次元世界へと、即日配達
される感覚。
あす楽も、アマゾンプライム配送も、真っ青ですわ・・・。
(ちょっと大袈裟か・・・苦笑)
なので、重い思い、思い入れのある事なんて、絶対3秒以上
考えないようにしている。
私は、もともと、相当ネガティブな人なので・・・。
それに、「ご縁」が深い人は、男であれ女であれ、好きであれ
嫌いであれ、引き寄せてしまうきらいがあるのだ。
できれば、遠い昔からの「魂のしがらみ」を葬り去り、
二度と、ゾンビとして現れない様に、楔を打ち込み、
永遠の死を、贈りたい。
でも、今世の課題は、これを終わらせなければ、終わらないん
だろうな・・・。
こっそりと、人知れず、心の澱を葬って、冷ややかな笑みを
浮かべたい。
でも、悪魔が言うのよ~。
「そうは、させないよ・・・・」って。
「ほら、君は、また、こうしてこの曲を聴いて
しまっているじゃないか・・・。」
そう、そうなんだよね・・・。
奴は、このガゼボのように、冷酷で、女たらしで、甘い声の
持ち主だ。(あくまでも、この歌の醸し出す世界観の中の話)
一番関わり合いになりたくないタイプ!
(今世は、お陰様で、袖すり合う程度で済んだ!)
しかし、そんな奴が、私の魂の片割れらしい。
もう、疑いようのない真実を、私は、見せられてきた。
そしていま、その片割れが、「早く書け、バカヤロウ~。」
っていつも、私を責め立てる。
「バカヤロウ」は、奴の口癖だ。
私は、こんな科白、自主的に吐く事なんてないから・・・。
奴は、死んでしまったのだろうか・・・。
死んでも、メンドクサイ奴である。
「君が、成仏できないのは、今世で、一杯女性を弄んだからだよ!」
行き先の無い、「女の執念が」いまでも長い髪の様に、君に
撒きついているから、この世に留まっているのさ。
そう言って突き放してやりたいが・・・・。
多分、「女癖の悪い人生」は、終わりにしたのかも知れない。
本体は、生きていると、私は思うけど・・・。
行き場の無い、成仏しきれない「女性への思い」と、その「想い」
にからめとられた女たちの悲しみが、まだ、この世界に
漂っているよね・・・。
私に処理させようなんて、一億万年早いわ。
どうぞ、その思いと共に、地獄に行き給へ。
地獄で、また、この世の続きのハーレムを続ければいいのに。
とは言えないのが、魂の片割れたる、悲しさか・・・・。
書いたら、成仏してよね・・・。
繋がる
久々に、ブログを再開された人のところへ、メールを入れた。
少し、悩んでいらっしゃる気配がしたので、お節介メール。
ちょっと、荷物を下して、一瞬でも、笑って、「ま、いっかぁ~」
って思ってほしかったので・・・。
コメントにしなかったのは、公開されて、見て欲しくない人に
知られることを避けるため。
メールを送った人は、「第三の眼」が、開いている人。
彼女は、私より、はっきり、くっきり意識して、その第三の眼を
使える人。
しかし、それだけに、余計なものを見てしまう事も多くて・・・。、
彼女は、霊的な障りも多いけれど、それ以上に、現実の生活も
課題を抱えた「お里の修行」が、大変そうだ。
でもできれば、その「お里の修行」に潰されることなく、飄々と
生き抜いて欲しいと、心から願っている。
時々繋がり、時々途切れ・・・・そして、また繋がる。
それが、決して不自然ではなく・・・。
そんなご縁が、長続きするご縁というものかも知れない。
偶然か、必然か・・・・。
久しぶりに、気になって、以前、よく
読ませて頂いていた方のブログへと飛んだ。
暫く休止されていたのだが、少し前から、
また再開されていたようだった。
3記事ぐらいは、日常の話が書かれていたのだが、
今日の記事は、ちょっと違っていた。
以前、彼女がアイコンとして使っていた
オリジナルの絵が最初に掲載されており、
思わず、懐かしい気分になり、読み進めて
いると、その絵が、某展覧会にて発表されたと
書かれていた。
それは、良かった~と、尚も読み進めると、
最後に、ビックリする展開が・・・・。
なんと、驚くことに、その絵の題名が、私が
別のブログで使っている、
ハンドルネームと同じだったのです。
私のハンドルネームは、某有名な方の名前を、
わざと一文字違えて、作ったものです。
勿論、一文字違うだけで、全く重みが違ってくるの
ですが・・・。
「それって、ホントに○で良い訳?△の
間違いじゃない?」
って、思わず、心で突っ込んでしまいました。
ちなみに、○=ア、△=マ です。
コメント入れていいのかどうか・・・・迷う。
師と死と志 (長文ですが・・・・何か? 40代以上の方は、老眼鏡を用意してね)
「し」と読む漢字は沢山あるけど、私の中で、
今、繋がるキーワードは、下記の3つだ。
ざっくり意味を記してみると・・・・。
師とは・・・・
死とは・・・・
-
1.《名・造》命が絶える。しぬ。なくなる。「死の商人」(兵器を売ってもうける商人)
-
2.生気がない。活動力がない。「死灰・死文・死角・死火山」
志とは・・・・
-
1.こころざすこと。こうしようと心に決めたこと。「―を遂げる」
-
2.厚意。親切。「お―を感謝します」
-
1.心が、ある目的に向かって動く。目的をたてる。こころざす。目的。めあて。こころざし。立てた信念。まあ、日本人なら、特にわざわざ意味を記さなくても、意味は解っている、お馴染みの漢字だ。この同音異義語が、一体、どう繋がっていくのか・・・・ってことが肝心の話なのだが・・・。どんな人でも、「師」と呼ばれる人、職業の人(医師とか教師とか牧師とか)に、全くお世話にならずに、死を迎えることは、まずもってないと思う。たとえ、あんまりご縁が無かったわ・・・・・とか、一応関わったけど、特にこれといって「自分の人生に多大な影響」を与えたとは思えないわ・・・なんて思っている人も多いかもしれない。自分から、能動的に選んで学ぶ、従事する、仕えるということでもない限り、「師」とは、自覚なく過ぎ去って行く・・・そんな人に過ぎない存在かも知れない。スピリチュアルな世界でも、「師」と呼ばれる方は、多く存在しているらしい。スピリチュアルカウンセラーとか、ヒーラーとか、霊能者とか、何チャラマスターとか、詐欺師とか、なりすま師とか・・・・・。おっと、最後の二つは、要らないか・・・。(苦笑)三次元世界で、正業と言われる「師」の付く職業の為に、「師」に師事するなら何の問題も無いと思うのだけれど・・・・。所謂見えない世界。スピリチュアル世界の「師」への師事・支持は、余程注意しないと私事とは言え、死児になってしまう可能性があるから気を付けなければならないと、私は思う。(随分、韻ふんじゃったな~。)どんなに有能で、貴方に素晴らしい預言を与えてくれる人だったとしても、ずっと、その「師」の言うがままの人生を、歩み続けていいものだろうか?「え、私、人生失敗したくないもので・・・。」いやいや、成功だけの人生で終わったら、何のための人生でしょうか?失敗は、成功の何倍もの「叡智」と、「慈愛」と「憐憫」とを、貴方に与えてくれる、素晴らしい「人生の師」そのものなんですよ!「いや、今までの人生失敗だらけで、もう二度と失敗したくないからこそ、師事してるんじゃないですか~~。」そんな反論も聞こえてきそうな気もしますが・・・。果たして、そんな「成功」だけを与えてくれる「師」や、貴方の避けてとおりたい問題を苦痛なく、スルーさせてくれる「師」が、本当に、貴方にとっての本物の師と言えるでしょうか?いつかは向かい会うべき「自分の死」と否応なく向き合った、まさにその時、貴方にとってその便利で、有難かった「師」は、果たして、最後まで感謝できる人だったと、心の底から思えるのでしょうか?「いや、思えますとも!」と100%の確信で言える方には、もう何も申し上げる言葉はありませんが・・・。「アレ・・・・待てよ!」と、ちょっと心が揺らいだ、貴方には、今一度、何のために、その師を、師として仰いだのか・・・って事を考え直して頂きたいと思います。私が思う本物の「師」とは、執着しない、執着させない、依存しない、依存させない、必要な叡智を、実用的な技術を、折れることなき志を継続させていけるように、ただ淡々と語り、与え、けして、必要以上の「見返り」を求めない存在だと思っています。そのような、揺るぎない存在が、今現在、この世界に居るのでしょうか・・・。私は、残念ながら、まだ発見しておりません。出会えていません。その存在自体を、信じられません。そりゃそうですよね。「志」とは、
- 1㋐ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標。
- ㋑心の持ち方。信念。志操。
- 2相手のためを思う気持ち。厚意。
- 3
- ㋐謝意や好意などを表すために贈る金品。「ほんの―ですが、御笑納ください」
- ㋑香典返しや法事の引き出物、僧への布施の包みの表に書く語。→
- 4 心を集中すること。注意。
- 5 相手を慕う気持ち。愛情。
- 6 死者の追善供養。
全て、一人称「私」で、完結できる事ばかりです。え、独りよがりで、間違うんじゃ?って・・・・。大丈夫!心配めさるな。独りよがりで、間違ったことをしたら、もれなく「失敗」という、貴方にとって素晴らしく厳しい、そして為になる「教師」が、どこからともなく貴方の元に、やって来てくれます。その教師は、厳しいですが、貴方にとって、これからの人生にとって、一番大事なものを、貴方に示してくれるのです。しかも、その教師は、バカ高いお布施も要求しませんし、あなたを依存させませんし、あなたに執着させもしません。だって誰だって、失敗した状態を永く保ちたいとは思いませんからね。私たちは、未熟ですが、それなりに問題に立ち向かい、悩み、解決しようとする「志」を、もれなく持っている筈なのです。その自分自身が持っている「志」に気づこうとせず、信じようとせず活用しようとせず、安直に、「師」と呼ばれる人に依存してしまう・・・・・・。そんな「心」が、詐欺師や、なりすま師と出会う切っ掛けを作ってしまうのではないでしょうか?お釈迦さまの「自灯明」の教え。「自灯明・法灯明」は、釈尊が入滅される前に弟子に示された最後の教えだといわれる。
「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」ということである。
「自己を拠りどころとし、法を拠りどころとせよ」
とは、釈尊の死が間近であったときに、師が亡くなったら、何に頼ればよいのかと嘆く弟子のアーナンダに対して
諭された言葉である。私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよ」と釈尊は説かれた。どんなに細々とした頼りなき「自灯明」だったとしても、困難と、自分の課題に立ち向かう「志」さえあれば、いつか、力強く燃え盛る松明のように、己を明るく照らす「灯」となる・・・と、私は信じています。