小さき森を愛する花  瑠璃唐草物語

瑠璃唐草の別名はネモフィラ。ギリシャ語のNemophila は、ギリシャ語の 「nemos(小さな森) + phileo(愛する)」が 語源とされています。そんな愛らしくも健気な花のように生きていきたいと思います。

繋がる

久々に、ブログを再開された人のところへ、メールを入れた。

少し、悩んでいらっしゃる気配がしたので、お節介メール。

 

ちょっと、荷物を下して、一瞬でも、笑って、「ま、いっかぁ~」

って思ってほしかったので・・・。

コメントにしなかったのは、公開されて、見て欲しくない人に

知られることを避けるため。

 

メールを送った人は、「第三の眼」が、開いている人。

彼女は、私より、はっきり、くっきり意識して、その第三の眼を

使える人。

しかし、それだけに、余計なものを見てしまう事も多くて・・・。、

 

彼女は、霊的な障りも多いけれど、それ以上に、現実の生活も

課題を抱えた「お里の修行」が、大変そうだ。

 

でもできれば、その「お里の修行」に潰されることなく、飄々と

生き抜いて欲しいと、心から願っている。

 

時々繋がり、時々途切れ・・・・そして、また繋がる。

 

それが、決して不自然ではなく・・・。

 

そんなご縁が、長続きするご縁というものかも知れない。

 

 

 

 

 

偶然か、必然か・・・・。

久しぶりに、気になって、以前、よく

読ませて頂いていた方のブログへと飛んだ。

 

暫く休止されていたのだが、少し前から、

また再開されていたようだった。

 

3記事ぐらいは、日常の話が書かれていたのだが、

今日の記事は、ちょっと違っていた。

 

 

以前、彼女がアイコンとして使っていた

オリジナルの絵が最初に掲載されており、

思わず、懐かしい気分になり、読み進めて

いると、その絵が、某展覧会にて発表されたと

書かれていた。

 

それは、良かった~と、尚も読み進めると、

最後に、ビックリする展開が・・・・。

 

 

なんと、驚くことにその絵の題名が、私が

別のブログで使っている、

ハンドルネームと同じだったのです。

 

私のハンドルネームは、某有名な方の名前を、

わざと一文字違えて、作ったものです。

 

勿論、一文字違うだけで、全く重みが違ってくるの

ですが・・・。

 

「それって、ホントに○で良い訳?△の

間違いじゃない?」

って、思わず、心で突っ込んでしまいました。

 

ちなみに、○=ア、△=マ です。

 

 

コメント入れていいのかどうか・・・・迷う。

 

 

空を悟るもの・・・・棚ボタのヒントで、お釈迦様に繋がる!

空を悟る者

 
 
孫悟空の孫は、単なる苗字であり、それ以上の意味はありません。
名づけの親は須菩提祖師です。
祖師はサルという中国語からとって孫という苗字をつけました。
けものへんを取って孫にするか胡にするかと一度考えて孫にしたのは、弟子を思う気持ちの表現でしょう。
どちらがよいかといえば、古い月の胡より、子孫繁栄の孫を選び、弟子の精進とその後についてを祝っただけのものです。

しかしその名前の悟空についてはとても深い意味があります。物語の中では、

おまえは十番目の弟子だから悟の字を引用して
とありますが、ここに作者の意図があり、
悟の字が十番目でも二十番目でも、
孫悟空の名前が孫悟空になるように、
物語は作られているようです。

なぜなら「悟」とはさとるという意味で、あわせて空を悟ると書き、それが仏教の根本概念だからです。

孫悟空は別名を孫行者(そんぎょうじゃ)ともいいます。
行者とは、宗教的功法によって悟りに到達する道を選んだ人のことを指します。

仏教で悟りを得る道はいろいろありますが、密教においては

  経典(きょうてん)
  功夫(こうふ)
  実学(じつがく)
  秘術(ひじゅつ)

を学び、これらの知識や技術を習得することによって得られた智慧を実践することが修行とされています。

これらを四大法門といって、とくに功夫を最優先に修行する者を行者といいます。

ちなみに経典を優先して学び、そこから悟りへの道を歩むものを研究者といい、人はその人を先生、師匠と呼びます。この物語の中では三蔵の事を指しています。

物語の中で孫悟空は数々の妖怪に勝利することができます。西遊記では仏道 (あるいは単に道) を進むときに遭遇する障害を妖怪という形で表現しています。
功法の実践によって空を悟った者は、修行中におこるいろんな障害を克服する力を持っている、ということです。

その多くの障害の中で、さすがの悟空も手に負えない妖怪も沢山います。
それは、たとえ功法を修め空を悟った者とて乗り越えられない障害もこの世にはたくさんある、ということの示唆でしょう。

物語の中には天帝にさえ手に負えないいろんな障害 (妖怪・怪物・化け物) がどんどん でてきます。

作者は、登場人物を将棋のこまのように配置して、最終的に全員を彼岸に到達させます。

冒頭に書いたようにこの物語はある一人の童話作家の思いつきやイマジネーションによる創作ではなく、作者はただ、その筆を持つ手を物語りにささげており、物語が作者に文章を書かせているかのようです。

ほんとうの作者は、一体誰と言うべきでしょうか。
 

須菩提祖師

 
須菩提祖師とは、釈尊十大弟子のなかの一人です。
十大弟子には順序があって、須菩提は第一の弟子です。
須菩提釈尊に解空第一、と称されておりました。

釈尊は人を誉めるのがとても上手だったようです。
どんな弟子にもその優れた面について賞賛し、その得手を引き出すように褒め称えています。
だれが見ても取り得のないような愚か者に対しても、あなたは優れて真面目ですと褒め称えることのできた人で、それはまた、嘘偽りのない真実でもあり、このようなことができた、ということについてもわたしは、それが悟った人の行いなのかと思いをはせるものです。

解空第一というのは、
あなたは空を解く道に非常に優れており、第一人者である、という意味です。
読んで字の如しですが。これが須菩提です。

この須菩提を筆頭に弟子は順に

  持律第一の優波離(ゆうばり)、
  智慧第一の舎利弗(しゃりふつ)、
  頭陀第一の摩迦葉(まかよう)、
  天眼第一の阿那律(あなり)、
  神通第一の目健連(もくけんれん)、
  多聞第一の阿難陀(あなんだ)、
  密行第一の羅侯羅(らごら)、
  論議第一の加旋延(かせんえん)、
  説法第一の富楼那(ふるな)

がおります。

この件については わたしが独自に調べた物であって、わたしの関わりがある僧侶達とはまったく関係がありません。

※ 現在交流のある僧侶達と知り合ったのは
2002年のことで、上記の記述 (孫悟空に関する記述) は2000年に わたしが書いたものを手直しして掲載しております。

この十人が十大弟子といわれます。
羅侯羅 (らごら) は釈尊の息子のラーフラです。
出家してしまった夫のもとへ財産をもらってきなさいと息子を送り、息子は母に言われたとおりに実父の釈尊に言うと、世界一素晴らしい宝物をあなたにあげましょうと言って、彼を弟子にしました。
それぞれの弟子にそれぞれの逸話がありますので、調べて味わうことは楽しいことです。

さて、話を須菩提に戻します。
釈尊のお弟子の中で須菩提は、釈尊の説く「空」について、一番よく理解した弟子でした。
釈尊の理解者で後援者であった給孤独長者の弟の子で、長者が釈尊祇園精舎を寄進したとき、その説法を聞いて出家したといわれています。

石猿は解空第一の須菩提の弟子になったので悟空と名づけられました。
ここに須菩提の存在理由があります。
(物語の設定環境としての、須菩提という登場人物の存在価値)

須菩提祖師と出合った悟空はすぐさま弟子入りし、師について法を学びます。
人間であったほかの弟子達よりも物覚えが速く、術もどんどん上達してやがて最高位の弟子になります。
師に入門して十年で地殺七十二変化の術をすっかり習得し、師匠に別れを告げて家来たちの待っている花果山に戻ります。
 
以上、西遊記。わたしの読み方
by polestar01 さまのブログより引用させて頂きました。
 
 

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西遊記でおなじみの「孫悟空」は觔斗雲(きんとうん)に乗って空を飛ぶです。孫悟空は物語なのでフィクションと言えばフィクションです。
その孫悟空は「須菩提祖師(すぼだいそし)」という仙人の弟子になり、孫悟空と言う名を与えられたとされます。この須菩提祖師(すぼだいそし)は釈迦の十大弟子の1人とされていますが、諸法皆空を悟った第一人者のことです。

私は孫悟空という名を見た時、
悟空は「空」を「悟った」物の意であることは簡単に理解しました。その「悟り」は「吾(わ)れ」の「心」です。自分(吾)の心を覚ることが「悟」です。「空」は般若心経の「色即是空・空即是色・受想行識」で理解出来ることです。座禅で坐ったから解るではないのです。
私は何事も座れば解ると言う人は【座禅バカ】と言っています。単一の示(衣)しか頭の知恵が回っていないのです。同じ座るのであれば禅の開祖達磨大師の「壁面九年」の故事を知って、初めて「ダルマ(真理)」の意味が解るのです。「九」から学ぶのです。

 

私は大本教神諭の「ダルマ(達磨)大師として現れた」を見た時、?と首を傾げました。ダルマとは「真理」のことであり、達磨(ダルマ)大師の壁面九年の事柄は壁を見つめて「九」で、壁でなく紙に「九×九」を示した意味かと勘づきました。禅は「単」を示す以上、そこから一つの事柄が見つけられるです。

 

言葉の仕組みとは、皆さんの想像を絶するほどの仕組みで成り立っているのです。

禅(禪)=単なる示し
九つ花の上下左右とも「五番目の口」は「41」の位置に成り立ちます

五番目の口で悟る心は、人に内在する良心神です

この存在は私達の魂の内では天帝の分魂が坐る位置ですが、私達からする私達の魂の天帝の分魂は主の御子格ではなくて、主の「孫格」に当たるのです。で、「孫悟空」となるのです。

大本教神諭が予告した「九つ花」とは、西遊記を読めば魔王が出した【九の数理盤】のことだと簡単に解るのです。

その孫悟空の「猿」が意味することは奇魂の働きである【叡智】なのです。叡智をもっての「悟」りなのです。いくら「禅」で坐っても「単」の示(しめすへん)しにしか過ぎないのです。

西遊記ではこの須菩提祖師(すぼだいそし)は「仙人」とされますが、この雲に乗るは仙人の術である「仙術」とされますので仙人ならば雲に乗るとなります。
この日本で「雲に乗った仙人」として有名なのが【久米仙人】の話です。今昔物語集などではその話が語られています。仙人修行で仙術を得て雲に乗ったが、川で洗濯している女性のふくらはぎに見とれて雲から落ちてしまった。そしてその女性と結婚をして俗人となったが、その後に遷都に運ぶ木材を仙術で都に運んだことで有名になった話です。
それはフィクションであるかどうかは解りませんが、昔話としてあっても、誰も現実に雲に乗った人など見たことはありません。しかし、霊体であれば観音菩薩如来図で描かれるように可能な話なのです。

神言会

以上、神言会さまブログより引用させて頂きました。

 

 

 

 

 

いや~西遊記も知っていたし、お釈迦様の十大

 

弟子の事もしっていたのに、この二つに繋がりが

 

あることに、今、やっと気づいた私。

 

悟空って、あんまりお気楽に使っちゃいけない

 

「名」だったのね~。

 

漫画や、テレビアニメや、ドラマの影響で、

 

すっかり身近な名前になってしまって

 

おりましたわ~。

 

 

お二人の、素晴らしい記事に感謝です!

神言会(kamikotokai.com)のプログ

師と死と志  (長文ですが・・・・何か?  40代以上の方は、老眼鏡を用意してね)

「し」と読む漢字は沢山あるけど、私の中で、

今、繋がるキーワードは、下記の3つだ。

 

ざっくり意味を記してみると・・・・。

 

師とは・・・・

 

〗 シ いくさ
 
  1. 1.
    《名・造》
    子弟を教える者。人の手本となる人。先生。
     「師の教え」
  2. 2.
    仏教キリスト教での指導者
     「法師・律師・導師・禅師・牧師・祖師」
  3. 3.
    工人の長、また技術者。後に、専門家を示す接尾語。
     「仏師・絵師・経師(きょうじ)・医師・薬剤師・写真師・講談師・詐欺師・山師(やまし)」
  4. 4.
    法師・講談師等の姓名に添える敬称。
     「神田伯山師」
  5. 5.
    軍隊。中国の周代の軍制では、二千五百人の一隊を師、五師を軍とする。
     「師団・王師・舟師・水師・出師(すいし)」
  6. 6.
    多くの人。もろもろ。多くの人の集まるところ。大きい。
     「京師(けいし)」

 

死とは・・・・

 

 

〗 シ・しぬ
 
  1. 1.
    《名・造》
    命が絶える。しぬ。なくなる。
     「死の商人」(兵器を売ってもうける商人)
  2. 2.
    生気がない。活動力がない。
     「死灰・死文・死角・死火山」
  3. 3.
    生死にかかわる危険。危険をおかす。
     「死命・死守・死地・死線」
  4. 4.
    野球で、アウト。
     「二死満塁」

 

 

志とは・・・・

 

こころざし
 
  1. 1.
    こころざすこと。こうしようと心に決めたこと。
     「―を遂げる」
  2. 2.
    厚意。親切。
     「お―を感謝します」
  3.  
 
〗 シ・こころざす・こころざし しるす
 
  1. 1.
    心が、ある目的に向かって動く。目的をたてる。こころざす。目的。
     
    めあて。こころざし。立てた信念。
     
     
    まあ、日本人なら、特にわざわざ意味を記さなくても、
    意味は解っている、お馴染みの漢字だ。
     
    この同音異義語が、一体、どう繋がっていくのか・・・・
    ってことが肝心の話なのだが・・・。
     
    どんな人でも、「師」と呼ばれる人、職業の人
    (医師とか教師とか牧師とか)に、全くお世話に
    ならずに、死を迎えることは、まずもってないと思う。
    たとえ、あんまりご縁が無かったわ・・・・・とか、
    一応関わったけど、特にこれといって
    「自分の人生に多大な影響」を与えたとは
    思えないわ・・・なんて思っている人も
    多いかもしれない。
     
    自分から、能動的に選んで学ぶ、従事する、
    仕えるということでもない限り、
    「師」とは、自覚なく過ぎ去って行く・・・そんな人に
    過ぎない存在かも知れない。
     
    スピリチュアルな世界でも、「師」と呼ばれる方は、
    多く存在しているらしい。
    スピリチュアルカウンセラーとか、ヒーラーとか、
    霊能者とか、何チャラマスターとか、
    詐欺師とか、なりすま師とか・・・・・。
    おっと、最後の二つは、要らないか・・・。(苦笑)
     
    三次元世界で、正業と言われる「師」の付く
    職業の為に、「師」に師事するなら
    何の問題も無いと思うのだけれど・・・・。
     
    所謂見えない世界。スピリチュアル世界の「師」
    への師事支持は、余程注意しないと
    私事とは言え、死児になってしまう可能性があるから
    気を付けなければならないと、私は思う。 
     (随分、韻ふんじゃったな~。)
     
    どんなに有能で、貴方に素晴らしい預言を
    与えてくれる人だったとしても、
    ずっと、その「師」の言うがままの人生を、
    歩み続けていいものだろうか?
     
    「え、私、人生失敗したくないもので・・・。」
     
    いやいや、成功だけの人生で終わったら、
    何のための人生でしょうか?
    失敗は、成功の何倍もの「叡智」と、「慈愛」と
    「憐憫」とを、貴方に与えてくれる、素晴らしい
    「人生の師」そのものなんですよ!
    「いや、今までの人生失敗だらけで、もう
    二度と失敗したくないからこそ、
    師事してるんじゃないですか~~。」
     
    そんな反論も聞こえてきそうな気もしますが・・・。
     
    果たして、そんな「成功」だけを与えてくれる「師」や、
    貴方の避けてとおりたい問題を苦痛なく、
    スルーさせてくれる「師」が、本当に、貴方にとっての
    本物の師と言えるでしょうか?
     
    いつかは向かい会うべき「自分の死」と否応なく
    向き合った、まさにその時、貴方にとって
    その便利で、有難かった「師」は、果たして、
    最後まで感謝できる人だったと、心の底から
    思えるのでしょうか?
     
     
    「いや、思えますとも!」と100%の確信で
    言える方には、もう何も
    申し上げる言葉はありませんが・・・。
     
    「アレ・・・・待てよ!」と、ちょっと心が揺らいだ、
    貴方には、今一度、何のために、その師を、
    師として仰いだのか・・・って事を考え直して
    頂きたいと思います。
     
    私が思う本物の「師」とは、
    執着しない、執着させない、
    依存しない、依存させない、必要な叡智を、
    実用的な技術を、折れることなき
    継続させていけるように、ただ淡々と語り、与え、
    けして、必要以上の「見返り」を求めない
    存在だと思っています。
     
    そのような、揺るぎない存在が、今現在、この世界に
    居るのでしょうか・・・。
    私は、残念ながら、まだ発見しておりません。
    出会えていません。
    その存在自体を、信じられません。
     
    そりゃそうですよね。
     
    「志」とは、
     
    1. 1㋐ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標。
    2.   ㋑心の持ち方。信念。志操
    1. 2相手のためを思う気持ち。厚意。
    1. ㋐謝意や好意などを表すために贈る金品。「ほんの―ですが、御笑納ください」
    1. ㋑香典返しや法事の引き出物、僧への布施の包みの表に書く語。→寸志
    1. 心を集中すること。注意。
    2. 相手を慕う気持ち。愛情。
    3. 死者の追善供養。
     
     
    全て、一人称「私で、完結できる事ばかりです。
     
     
     
    え、独りよがりで、間違うんじゃ?って・・・・。
    大丈夫!心配めさるな。
     
    独りよがりで、間違ったことをしたら、もれなく
    「失敗」という、貴方にとって素晴らしく厳しい、
    そして為になる「教」が、どこからともなく
    貴方の元に、やって来てくれます。
    その教師は、厳しいですが、貴方にとって、
    これからの人生にとって、一番大事なものを、
    貴方に示してくれるのです。
     
    しかも、その教師は、バカ高いお布施も
    要求しませんし、あなたを依存させませんし、
    あなたに執着させもしません。
    だって誰だって、失敗した状態を永く保ちたい
    とは思いませんからね。
     
    私たちは、未熟ですが、それなりに問題に
    立ち向かい、悩み、解決しようとする「志」を、
    もれなく持っている筈なのです。
     
    その自分自身が持っている「志」に
    気づこうとせず、信じようとせず
    活用しようとせず、安直に、「師」と呼ばれる人
    に依存してしまう・・・・・・。
    そんな「心」が、詐欺師や、なりすま師と出会う
    切っ掛けを作ってしまうのではないでしょうか?
     
     
    お釈迦さまの「自灯明」の教え。
     
    自灯明・法灯明」は、釈尊が入滅される前に弟子に示された
    最後の教えだといわれる。
    「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、
    法を拠りどころとして生きなさい」ということである。
    「自己を拠りどころとし、法を拠りどころとせよ」
    とは、釈尊の死が間近であったときに、師が亡くなったら、
    何に頼ればよいのかと嘆く弟子のアーナンダに対して
    諭された言葉である。

    私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を
    拠りどころとせよ」と釈尊は説かれた。

     
     
    どんなに細々とした頼りなき「自灯明」だったと
    しても、困難と、自分の課題に立ち向かう
    「志」さえあれば、いつか、力強く燃え盛る
    松明のように、己を明るく照らす「灯」となる・・・
    と、私は信じています。
     
     
     

 

最近の、私の一押しトピック!

このブログを始めて、4月に、懐かしの音楽シリーズで、私の大好き

だった曲、「雨音はショパンの調べ」をご紹介した。

 

ほんとに、その時は、久しぶりに聞いて、「あ~やっぱり名曲やわ~。」

と感心し、曲の世界観に浸っていたのだが・・・。

 

その「雨音はショパンの調べ」を、日本語でカバーした「小林麻美」さん。

 

なんと彼女が、今年、突如として、芸能界に復帰したのだった!

 

マ・・・マジですか・・・・。

 

曲を紹介した折、気になって最新の情報を調べていたのだが、

たまたま、某歯医者さんと対談している写真を見つけ、

ちょっとボーゼン自失状態に、陥ってしまっていた私。

 

あのアンニュイで、お洒落カリスマだった小林さんが、

なんと、普通の、おばさんになってる~~~。

 

彼女の、雑誌の切り抜きを、今でも大事に持っている私としては

ちょっと、油断が過ぎないかい?って思ったのだ。

 

いや、確かに、60過ぎの方なら、こんなもんか・・・と

思わなくもないのだが、歳は取っても、昔取った杵柄。

おしゃれクィーンの面影が、少しは残っていて欲しかったな・・・と。

 

最近、一般人だって、美魔女とか言って、結構小綺麗にしているでは

ないか・・・。

引退していたとは言え、芸能界を牛耳る夫を持ち、ご本人も

芸能界でキラキラ輝いていらっしゃったんだもの、もう少し

努力していても良かったのかな・・・って残念な気持ちでいたのだ。

 

そう感じた半年後、彼女の突然の復帰を聞き、「え、一体何をやるの?」と

思わず驚かずには、いられなかった。

確かに、スレンダーなボディは健在だと思うが、ハイビジョンに

耐えられるの?って、つい心配してしまったのだ。

 

そんな心配をよそに、彼女は、本来の雑誌モデルの仕事を、

復帰の第一弾としてやり遂げた。

 

ネットで写真を見ただけなので、なんとも言えないが、さすがに

昔取った杵柄と、ヘアメイクのお陰で、おしゃれっぽい雰囲気に

仕上がっていたようだ。

 

フランスのマダムって感じの、お洒落上級者な感じ。

 

これから仕事をやりながら、また「元の勘」ってやつを

取り戻していくのだろうか・・・。

 

そうだな・・・・バブル世代も、そろそろアラカンになるんだもの。

彼女の、お洒落番長復活は、頼もしい限りかも知れない。

 

 

 

 

 

 

名古屋に翻弄される私。

今年で、9年目になる名古屋市での暮らし。

もう、そんなになるんだ・・・。

何だか、あっと言う間だったな~。

 

しかし、未だに、この名古屋と仲良くなれない私が、居る。

 

今日もね、「名古屋を理解しようキャンペーン」の一環として

お昼に、あんかけパスタを食べたんですよ。

まあ、冷凍のオーマイの、あんかけパスタですけどね・・・。

 

しっかし、食べてる途中で、喉に詰まってしまい、

咽てしまった。

 

咳き込んで、何度もゴホゴホやっていたら、パスタを

服に溢して、シミを作ってしまうわ、咳き込みすぎて

胸の脇が痛くなってしまうわと、異常をきたし、

思わず、途中で食べるのを断念してしまった。

 

私の体さえも、名古屋の味を拒否してしまっているのだろうか?

「食」については、結構トライする勇気は、持っている方

なんだけれど、どうにも、マッチしないんだなぁ~。

 

いやいや、決して名古屋の事をバカにしたり、けなしたりする

意図は、ないんだけれも、どうしても折り合わない「何か」が

私と、名古屋の間には、横たわっている。

 

まあ、食だけなら、昨今、お取り寄せで、何とか対応できなくも

ないのだけれど・・・。

 

問題は、むしろ「人」なのかも知れない。

 

実は、昨年から始まっていたのだが、同じ体操教室に通っている

女性で、実に不可解な、困った行動をする人が、居るのだ。

 

おそらく、彼女も、私と、そんなに年頃は変わらないアラフィフさん

だと思うのだが・・・。

 

彼女と私には、全くの共通点が見つからない。

彼女は、髪は刈り上げのように、ベリーショートで、ボーイッシュな

スタイル。 一方、私は、セミロングのストレート。

彼女は、アラフィフとは思えないほどの、スレンダーで、メリハリの

あるスタイル。 私と言えば、ゆるキャラにした方が、お似合いの

ぽってり体形なのだ。

 

何を、どう転んでも、お互い共通の話題が、見つかるとも思えず・・・。

根っからの人見知り(うっそ~ん)の私としては、軽い挨拶をする以外

彼女との接点は無かった。

 

そう、ずっと、そういう状態が続く筈だったのだ。

しかし、何故か、不思議なことに、奇妙なほど、彼女とはシンクロ

しまくって行くのだ。

私が、その体操教室へ行くのは、家事を終えてからなので、到着する

時間にも、1~1時間半ぐらいの幅がある。

なのに、8~9割の割合で、いつも彼女に出遭うのである。

まあ、生活サイクルが似てるんだろうな・・・ぐらいで終われば

良かったのだが、このシンクロが、笑えない状況へと、どんどん

陥っていったのだ。

 

私は、体操教室の帰りに、近隣のスーパーで買い物をするのだが、

ほぼ、ここでまた、彼女とも出会うことになる。

ここまでは、偶然で片付けられるのだが・・・。

 

ある日、買い物かごを抱え、レジに並ぼうとした時、彼女が

あるレジに並んでいるのに気付いた。

もうすぐ彼女の番であり、彼女の後ろには3人程ならんで

いたので、私は、比較的空いているレジを探し、そこに

並んだ。私の番が来て、店員さんが、POSシステムに商品を

通し、ピッ、ピッ、っと音が流れ始めたころ、私は、自分の

左側に、何か異様な気配を感じた。

気になって、チラッと横目で確認すると・・・・。

 

なんとそこには、もうとっくにレジを済ましていて良い筈の

そのショートカットの彼女が、並んでいたのである。

思わず、ゾゾ~~~ッと冷たいものが、私の背中を流れた。

 

「何で? 何で、わざわざ並び直したの?」

 

ここは、気付かない振りをして、お会計を済ました方が

良いのか・・・・、それとも、別のレジに並んでいた事を

知らなかった振りをして、にこやかにご挨拶した方が

いいのか・・・・。

私は、少々思い悩んだ。

しかし、無視するのも変だしな・・・・。

私は、さりげなく左側に目をやり、一礼した。

 

思えば、この一件から、彼女の異常行動が始まった気がするのだ。

それからというもの、そのスーパーの、あらゆる角で、私は

彼女と、急激な接近遭遇を果たすことになる。

これが、車同士なら、出会い頭、衝突事故って感じなのだが・・・。

 

ぼんやりと、考え事をしていて、商品の棚のコーナーを曲がる度、

ぶつかりそうな勢いで、彼女が飛び出してきた。

もう、声もでないくらい、びっくりしてしまう私。

彼女と言えば、まるで、それを予測出来たかのように、何気なく

「あ~ごめんなさい~。」と言いながら、風のように足早に

去っていく。

 

そんなことが続く内、今度は、同じ時間帯に来て、偶然ね!

と言えないぐらいの、気味の悪いシンクロが待ち構えていた。

私が、体操教室のドアを開けて、「こんにちは~」と挨拶し

靴を脱いで、ロッカーに入れるか、入れないかのタイミングで

彼女が、教室に入ってくるようになったのだ。

そんなことが、あまりに続く様になり、私は、わざと行く時間帯を

ずらし始めたのだが、どんなにずらしても、スナイパーのように

彼女は、私を追って入ってくるのだ。

 

どこか柱の影が、物陰に隠れて、私が来るのを待ち伏せでもしている

んだろうか・・・と思う程だった。

しかし、ある日、私は、ついに、その秘密を知ってしまった。

 

その日、珍しく、教室に彼女の姿を見なかった私は、何だか、

ちょっと、ほっとした気持ちで、体操を終え、帰途に就こうと

ドアを開けた。

日差しがまぶしくて、日傘を差そうとした、その瞬間。

道路の向こう側から、私の方を見ている人と目が合った。

その目が合った人こそ、その彼女だったのだ。

彼女は、道路向かいの家の玄関から、ちょうど出てくる

ところだったのだ。

 

そう、体操教室と目と鼻の先。

道路を隔てた家が、彼女の家だったのだ。

私は、瞬時に理解した。

シンクロは作られたものだったことを・・・。

 

まさか、彼女の方も、玄関出た瞬間、私と目が合うとは

思わなかったのだろう。

一瞬、ギクリとした間があったのだが、私が会釈すると

彼女も、会釈を返した。

 

それから、しばらくは、彼女とのシンクロは、発生せず、

その事が、余計に、私の疑念を深めることになった。

私に、家を知られたから・・・何故か、同じ時間に、

よく出会うシンクロが、偶然でないと知られたから、

その行為ができなくなったのだろう・・・と。

 

勿論、ここで終わってくれれば、私も、思い悩む必要は

無かったのだが・・・。

 

ほとぼりが醒めたと、思われるタイミングで、また彼女の

作られたシンクロは始まってしまった。

 

「一体、何がしたいんだろう・・・。」

 

私と同じタイミングで、体操教室に来て、並んで機械での

筋トレをして、「ほら、見てみて~私って、こんなに細いのよ~。」

「それに比べて、横の人の、太くてみっともないことったら!」

なんて、他の人に誇示したい訳でもないだろうけど・・・。

 

何かしら、彼女のアンテナに引っかかるものが、私にあったとして

だったら、普通に、話しかけてくれれば、いいってだけの事である。

何故に、偶然を装って、追いかけ回す必要があると言うのだろう?

 

体操教室での彼女の態度を見ていると、ユーモアもありつつ、わりと

さっぱりとした性格の様に見受けられるのだが・・・。

何で、私には、そういう態度なんだか・・・。

 

私は、とうとう知らぬふりが出来ない様になりなくなり、極力、

彼女の存在に気づかない様に振舞った。

それに気づいたらしき彼女は、体操教室でのシンクロは、

控えめになった。

しかし、例のスーパーでのシンクロは、もはや、ドリフか

新喜劇か!と、思わず苦笑せずにはいられないほど、

更に、わざとらしい演出になってしまったのだ。

 

ごく、最近の例だと・・・。

 

お魚コーナーで、品定めして、今一つだな・・・と思った

私が、隣のお肉コーナーへと、歩みを進めようとした瞬間。

物凄い勢いで・・・突進してくる人が・・・。

そう数量限定のバーゲンに、つかみ掛からんばかりの勢いで

くるが如く、カートを飛ばしてくる人。(まさにそんなスピード)

私の視界の端っこに、スカートをはいた女性が映りこんだが、

この時は、そのスカートと、彼女が結びつかず、気付かなかった私。

 

お肉コーナーを見て、乳製品コーナーで、バターを買おうか・・・

どうしようか・・・と迷いつつ離れる瞬間に、また・・・。

ダ~~~っつと走りこんでくる人影が・・・。

そこで、初めて、私は、さっきのスカートの人が、彼女だったと

気付いたのでした。

 

もう、ぞっとするを通り越し、絶句。

私は、そっとパンコーナーに身を潜め、そこから

あまり人の来ないルートへと移動し

彼女が、ついて来ていないのを確認して、洗剤コーナーの

角を、曲がったのでした。

 

しかし、その瞬間。

 

そう、また、「私は、知りませんよ~偶然ですよ~。」を

装った彼女と、危うくぶつかりそうになってしまったのです。

 

余りの事に、ビックリし過ぎて、私は、思わず

「こんにちは!」って言ってしまいました。(苦笑)

彼女は、私の方を一別もせず、「こんにちは~」と

言いながら去って行きました。

 

ヤレヤレ、まだ、この「偶然の出会い」というヘタな

芝居は、続くんだろうか・・・・。

 

一回、本人に、聞いてみた方がいいのかね~。

 

「何か、私に、仰りたいことがありますか?」って・・・。

 

 

いや~怖くて、聞く勇気がないわ~。

 

体操教室を変えるべきか・・・・。

気に入っている教室だけに、悩む。

 

しかし、教室を変えて、そこにまた彼女が居たら・・・。

 (ゾゾ~~~~ッ)

もう、ホラーですな・・・そこまで行ったら・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

緊張から解き放たれて、書きたいことは沢山あれど・・・。

試験勉強中、ブログを書きたい衝動に

何度か駆られる事があった。

しかし、書き出すと止まらない気もして、

ぐっと、我慢していた。

 

今、試験が終わり、どど~~っと緊張から

解き放たれ、書きたかった話題が、

私の頭の中を駆け巡っている。

 

どれ、どれ、一体どれから書くのよ~~~。

「ハイ!」「はい~」「私、私」と、

私の中のトピックが手を挙げて、

収拾がつかない感じだ。

 

何から書こうか・・・・。

 

いきなり核心から、行っちゃう?

 

いや、久々だしね・・・・。

準備運動なしに書いちゃったら、

コケそうな気がしてきた。・・・。

ちょっと準備運動を兼ねて、宅建試験

こぼれ話から、書いてみましょうか?

 

 

10月16日、それが決戦の日だった。

 

いつもの日曜日なら、朝早くから仕事に

出かけているのだが、その日は、夫と息子を

仕事に送り出し、私は、仕事を休み、

試験に備えた。

 

もうね、当日だもの。

ハードな勉強は疲れる。

何せ、四十の手習いどころか、アラフィフ

真っ只中なのだ。

やれ、覚えが悪いの、忘れるのが早いの、

頭が固いの・・・なんて言うよりも、

「目」「文章を読む目のスペック」ってやつが、

あまりに脆弱になり過ぎていたのだ。

 

要は、頭は、勉強をしたくても、目が

ついて行かないのだ。

なので、日々の勉強も、目が疲れたら辞める!

というスタンスで進めていた。

 

しかも、試験当日は、2時間の真剣勝負が

待っているではないか!

「見る力」の余力は、残しておかなければ、

エライことになってしまう。

 

そんな訳で、私は、もっぱら最後の勉強は、

「オリジナルの語呂合わせで重要事項を確認」

という作業に徹した。

私が学んだユーキャンの教材にも、追加文書

の中に、教授陣が考えたであろう語呂合わせ

が載せられているのだが・・・。

 

いかんせん、かなり無理がある語呂合わせ

なのだ。

それを覚えるのに、労力を使うようでは、

何のための語呂合わせなのか!

って文句を言いたくなるクオリティ。

 

なので、私は、オリジナル語呂合わせを

発明したのだった。

我ながら、なかなかの秀作が出来て、

錆びついた頭でも、しっかりと

覚えることができた。

 

しかし、残念ながら、「統計」の分野の

細かい数字を、語呂合わせで完璧に覚えたにも

関わらず、あまり細かい数字が出なくて、

ガッカリ!

あ~~、私の語呂合わせちゃんの、出る幕

が無かったわ・・・。

 

去年、余りの、難問・奇問・意地悪問に、

時間が不足気味だった私は、

今回、50問の内の、一番最後の方から

解いていくという、奇襲作戦に打って出た。

 

 

50~46問までは、所謂、五問免除

という分野で、意外と簡単な問題が

多いからだ。

そして、次は宅建業。

つまりは、宅建士にとっての、一番肝

となる分野である。

ある意味、点数の稼ぎどころでもある。

 

去年は、以外に、この分野が難しかった

んだよね~。

勿論、宅建業の分野を、私も得意としていた

のだが、重箱の隅を嫌らしく突く!

的な問題に、翻弄されたっけ・・・。

 

ところが、今年は・・・。

問題を、解き進めるにつれ、

「あれ・・これって・・・。」と

思う程、めちゃくちゃ素直な問題が多い。

「あ~さては、去年と趣向を変え、

宅建業は優し目、民法を難し目のパターンで

きたんやな~。」と、頭の中で予測発動。

「こりゃ、サクサクやっていかないと、

民法で、時間食ってしまうわ。」

 

そう計算した私は、宅建業の分野は、

あまり悩まず、即答で答えを

導いて、そのままマークシート

塗りつぶしていった。

 

宅建業分野を終え、次は法令上の制限。

これもまた、数字オンパレードの厄介な

分野である。

細かい数字を覚えることも、メンドクサイ

のだが、それ以上に厄介なのが、

制限される数字の、以上・以下・未満・

超えるという表現が、規制される数字ごとに

違うことである。

「もう、いっそ全部、統一しちゃえよ~~~。」

って思わず言いたくなるほど、

入り乱れている。

たいして、意味があるとも思えないのだが・・・。

 

まあ、そうは言っても、覚えなくては

始まらないので、

仕方なく覚えはしたが・・・。

 

法令上の制限も、なんとなく突破し、

「あれ、こんな簡単でいいんかい??」

という疑問が・・・。

 

「うわ~民法、難しすぎて、手が出なか

ったら、もう勘でマークシート

塗りつぶすしかないのか・・・。」

そんな絶望感が押し寄せてくる。

 

そして民法に突入。

去年の難題の宝庫だった民法

 

しかし・・・「あれ? まじで・・・。」

嘘みたいに、素直な問題ではないか・・・。

過去問で、よくお見掛けした枝肢のような内容。

 

ゆっくり問題を解いていったお陰で、見直す

時間は15分ほどしかなかったものの、

もう一度、真剣に再考し直すほどの難問も無く、

試験は、あっさりと終了したのだった。

 

試験の内容も、去年とは違ったが・・・。

試験を受けている人たちの感じも、昨年とは、

大違いだった。

終了したときの、疲労感と、絶望感が、誰にも

感じられない明るく、自信に満ちた

晴れやかな顔が多かった。

 

私の、隣と、前の席は、私と同じく、

おばちゃんだったのだが、

彼女達も、余裕の表情だった気がする。

隣のおばちゃんなどは、私が、同じぐらいの

年齢だと気づいて、試験前にも、チラチラと、

こちらを覗き込んでいたのだが、

私は、一切気づかないふりをしていた。

 

話しかけられでもしたら、えらいこっちゃ

だからである。

女子だけの会場という特殊な空間なので、

異様に静なのである。

女子は、真面目。

試験の始まる瞬間まで、教本に目を通して、

お喋りする人は、

一人も、いないのである。

お喋りなんぞ、しようものなら、真面目に

勉強している人に迷惑をかけてしまう。

 

喋りかけられないように、隙を

与えないのが一番。

 

おばちゃんは、こういう時、空気読まない人

多いからな~。

ま、私も、おばちゃんなので、人の事は

言えないが・・・。

 

試験終了後、家に戻り、おにぎりを一つ食べた。

 

溜まっていた、アイロン掛けも済ます余裕が、

今年はあった。

去年は、ヘロヘロで、とても、そんな気が

起きなかったもんね~。

 

翌日になって、ユーキャンの解答速報を見て、

答え合わせを行った。

 

結果は40点(50点満点)

ここ十年の、合格足切点数は、最高点が36点

だったらしい。

本来なら、合格安全圏を突破したと、喜びたい

ところだが・・・。

 

何せ、今年は、問題が易しすぎた。

他の資格取得学校の合格点予測を見てみたが、

概ね34~37点の範囲に収まっていた。

 

 

そうかな・・・・。

本当に、その点数で収まるのかしら?

去年の、難しい問題ですら、31点だった

というのに・・・。

今年、足切点数の上限、更新してしまうん

じゃなかろうか・・・。

 

試験会場での、みんなの自信満々な顔を

思い出すたび、私はそう思えて仕方なかった。

 

上位15~17%ぐらいで、足切される宅建士試験。

 

11月の発表があるまでは、安心できないのだ。

 

しかし、死力は尽くした。

 

個人的には、後悔は、微塵もない。